議題 : 援助交際のニッポン
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やっぱり僕は、反・宮台のほうに共感してしまう。
ダブルスタンダード(二枚舌)と言ったって、それが矛盾概念とは限らない。
色欲というものは誰にでもあるだろう。
また、色欲や美意識からくる淡い恋なんていうものも、自然なものだ。
若い素直な心は、恋愛・遊び・交友・ファッション・芸能・・・といったものに惹かれ、その充実を目的とする。
大人だってそうかもしれない。
しかし、そこには、虚しさや儚さ、さらには軽薄さや愚かさ、依存性・支配欲・魔性・暴力・狂気といったようなものまで、表裏としてつきまとうことも、人は知っている。
親子の愛なら、苦しんでいる時こそ寄り添い、慈しみ、助けようとするが、恋愛はややもすると、冷淡になる。
恋愛なら幅があるだろうが、これが売買春ともなれば、その利己的享楽性や依怙贔屓は顕著になることだろう。
仏教で説く「慈悲」と「愛(愛欲、婬)」の違いである。
婬に溺れてしまっている大人は、自分を恥じているがゆえに、事実を隠し、時に二枚舌の説教をするのだ。
だが、ここで押さえておくべきポイントは、
それを大人は理解できて子供は理解できないと考えることが、不当な差別でしかないということ。
「表では綺麗な事を言い、裏で抜け駆けして3Pしてる校長先生」を知った子供は、
正直者が馬鹿を見て、ずるい大人が得をし勝つのが、今のこの社会なんだと思う、と宮台さんは言う。
が、それを語る宮台さん自身はその校長先生を軽蔑している。
その軽蔑が分からないほど、子供は馬鹿じゃない。
堕落した大人が道徳や倫理や規範を垂れるのは滑稽だが、
条例や法律にそれを謳うことは何ら問題ではない。
大人や社会が、いざという時に、子供をどう助け、どう導いていくかの宣言でもあり、
安心につながる側面だってあると思う。
で、その効果が仮に無かったとしても、
それを排除しないと教育できない、あるいはそれが教育の足を引っ張ると主張するのは、
責任転嫁に他ならないのではないだろうか。